一生幸せになれない人

数年ぶりに私的な空間で自分の悪口を面と向かって言われる機会があった。おそらく中学校以来ではないか。

研究に対する穿った批判を頂戴したり、業務においてクレーム対応したりということには慣れているので、延々と悪口を聞かされること自体は耐えられないほどの苦痛ではなかった。むしろ時間と金を無駄にしていること、せっかくの料理と酒を楽しめないことの方が苦痛であった。

悪口の内容について詳細は省くが、当然のように一切建設的な内容はなく、事実が歪曲されている部分も多かった。私自身の行動に問題があれば批判を受け止めた上で改善もできよう。しかし、悪口の場合は過去に戻って何か変えるとしても、相手との関係を断ち切ることしかできない。

私自身、聖人ではないし、どうしても苦手なタイプの人間はいる(逆に私のことを苦手な人間も大勢いる)。そのような人間と遭遇した場合は大体距離を取って、関係が無限希釈されるまで待つ。これは、どうやら相手が私のことを苦手そうだと察した場合も同様である。無理に関係を維持しようとしてどす黒い感情を抱えたとしても、誰も幸せにならないからだ。この結果、中学校卒業以来、私(のこと)が苦手な人間との関係を無理に維持することはほとんどなく、良い友人に恵まれて生きてきた。

私は配偶者の実家に居候することはあっても自らの実家に宿泊しない程度には自分の家族が苦手で、可能な限り距離を取って生きてきた。進学先も実家から出られることを第一に考えて選択した。その際、家族と絶縁しても生きられるような"保険"も利用できるようにした。当然だがこれらは一朝一夕に行えることではなく、10年以上の単位で計画・実行した。無論、環境・運に恵まれたことも大きいが、全ての人間が環境頼りで事を成せるはずもなく、私自身も必要最低限の努力はした(はずだ)。

話を戻そう。私の理解では、悪口とは徹底して発信者の都合による。相手の事情など考慮せず、自らの事情にのみ基づき、相手との対話可能性を消し去るものである。対話が不可能であれば、その相手と関係を維持することはできない。

極論かも知れないが、悪口とは自己愛の究極形だと思っている。自分が気に入らないものに対する攻撃で得られるものは、自分が気に入らないものの排除だ。排除により、発信者は自身を守ることができる。しかし、世の中には人も物もあふれており、次から次へと出現する気に入らないものたちは排除しきれない。結果、悪口を言う人間は延々と悪口を言い続けることになる。仮に悪口として発露しなくても、負の感情を抱え続けることになる。

これを解消する一つの方法は他者を尊重することだろう。自身の思想や立場があるように、他者にも思想や立場がある。理解できなくても他者を尊重できれば、悪口による攻撃は容易にできないはずだ(と、私は思う)。

もっとも、他者を尊重することは容易にできることではない。これを踏まえると、悪口を言う人は一生幸せになれない人なのかも知れない。私はその生き方を尊重するが、これまでの生き方に倣って、関係は無限希釈する。