アフリカが真に解放される日は来るか〜アート研究から〜(修正版)

(2022年5月6日:登壇者からコメント経由で記事の削除を依頼された。これを受け、全部削除でなくとも依頼の目的を達成できると判断し、記事の一部削除・修正を行った。そのため、文意を取りにくい箇所などが生じている。)

 

少し前だが12月7日(土)に「アフリカからアートを売り込む」と題したシンポジウムを拝聴してきた。備忘録を兼ねて雑感と共にここに記す。可能であれば記載内容について誤りのご指摘や、補足等のご教示をいただければ大変ありがたい。

なお、本シンポジウムの概要は下記リンクより参照されたし。

www.l.u-tokyo.ac.jp

 

演者と講演主題は次の通り。

前半

小川弘氏(株式会社東京かんかん);アフリカ骨董・美術品の買付けと収集、相場について。会社は骨董以外も手広く扱う。

川口幸也氏(立教大学);アフリカ同時代美術の展示。

柳沢史明氏(東京大学・主催者);旧ダオメ王国(現ベナン)におけるツーリストアート(土産物)の変遷。特にモチーフや技術について。

後半

緒方しらべ氏(国立民族学博物館);ナイジェリア地方都市における「アート」と「アーティスト」の現状。

安斉晃史氏(株式会社バラカ);タンザニアからTinga Tingaアートの輸入・販売。会社はコーヒーなども取扱う。

 

日本語を母語とする人の多くにとって、アフリカ大陸の、特にサハラ以南は縁遠いものだろう。私の周りでもモロッコやエジプトのようなアフリカの地中海沿岸地域を観光で訪れた人間は多いが、それ以外の地域となるとなかなかいない。いたとしても仕事や研究で訪れるか、世界一周(に近いもの)の過程で訪れた例が多く、その土地に魅力を感じてサハラ以南のアフリカへ渡航した人間の数は非常に限られる。以前の私も個人旅行であえてアフリカを目的地に選ぶかと言われれば選ばなかった、と思う。

そんな状況なので、日本においてアフリカ(特にサハラ以南)を「知って」いる人の数は非常に限られている。最も普及しているアフリカのイメージは、テレビのバラエティー番組や、もはや近代文学になりつつある旅行記の類に作り上げられたステレオタイプだと断言しても過言ではあるまい。この文章を読んでいる人も、アフリカと聞けば野生動物、コーヒーやカカオなどのプランテーション作物、仮面を着けて槍を持ち赤土や草で作られた家に住む大家族なんてものを想起するのではないか。なので、例えばアフリカ料理店のメニューに並ぶ煮込み料理や、主食になる粉物の名前を1つでも知っていれば、世間より遥かにアフリカに通じている方だ。つまり、それくらいアフリカと日本には"距離"がある。

本題に戻るが、想像に難くないようにアフリカ美術の日本における知名度は(体感として)非常に低い。アフリカ諸国を題材とした展示を見かける機会はどの程度か。アフリカの一国、アフリカ出身の作家一人にスポットライトを当てた企画展示の広告を見かけたことがあるか。アフリカから発信されているアートを何でもいいから思い浮かべることができるか。検定教科書におけるアフリカ美術の記述量は他地域のそれと比較してどの程度か。本シンポジウムにおいて議論すべき要点、ないし解決への糸口を見出されるべき課題はまさにここにある。(仮に私がアフリカンアートを研究対象にするのであれば現状を把握するために知名度に係るデータを取得しておきたいと思うものだが、調べた限りでは見当たらなかった。)

さて、商取引され得る「アート」にどのようなものがあるかざっくりと分類すると、

・日用品を主とする民芸品(生活必需品、実用品、現地消費)

・土産物を主とする工芸品(民芸品よりも商業的、輸出を含む外需)

・骨董品を含めた芸術作品(商取引されるが上記2つと相場を異にする)

のようになる。

アートの区分について述べたところで、演者が取扱う題材について先の分類に沿ってもう一度確認すると以下のようになる。

・現地消費を目的とした民芸品について;緒方氏

・土産品や輸出向けの工芸品について;柳沢氏、安斉氏

・骨董品や芸術作品について;小川氏、川口氏

アフリカ美術を取扱う人間は少ない中にあって、いずれの区分にも演者がおり、バランスが取られている。一方で、「アート」の指すところが上手く整理されていないために議論が進んでいなかった。つまり、おそらく主催者が目指したであろう芸術・工芸を広範に扱うという目的は、皮肉にも扱う領域が広範であるがゆえに達成が困難な事態に陥っていた。それを象徴した場面が、後半終了後の質疑応答で「「アーティスト」の定義」を問うたフロアからの質問に対する演者達の反応だ(この時の登壇は後半の演者3名のみ)。この問いに対して明確な答えを返した登壇者は安斉氏のみで、「アルチザン」と即答した。緒方氏は現地で「アーティスト」と称される集団が何に当たるのか言い換えて答えるべきであった(おそらく「印刷や塗装などの実体化までを一手に引き受けるデザイナー」という表現が適当であろう)。

ところで、この区分がなぜ大事なのかというと、単純に動く金額が異なる点にある。現地で消費される日用品は現地の経済状況に合わせた価格になり、土産物は観光客(外国旅行可能な所得層)の経済状況に合わせた価格になる。骨董品や芸術作品に関しては相場が完全に異なり、数百万円から数億単位の金額が動くこともザラである。動く金額の違いは「売り込む」という本シンポジウムの主目的と不可分だ。すなわち、上記の区分毎に売り込む戦略は異なるし、生産/制作者と共に目指すべき方向や到達点も異なる。

個々の条件を理解し、戦略を立て、実行する。上に記した安斉氏の回答が残りの2名と比べて明朗であった最大の理由は、これらを実行して「売り込む」ために現状を深く理解しているからに他ならない。現地での調査を専門として禄を食んでいる人間よりも、商取引を行なっている人間の方が状況をより正確かつ詳細に捉え、加えて現地に利益までもたらしているというのは若干の皮肉を感じる。

 

ここからは順を追って講演内容と雑感をまとめていく。 

小川氏と川口氏の講演によって、日本におけるアフリカ美術の知名度の低さと歴史の浅さの再確認が行われた。小川氏の講演では、特に骨董品について、欧米におけるアフリカ美術市場の成熟度合いや、新規市場開拓の困難さ(市場に新規流入する骨董品の点数の少なさ)が指摘された。これらの事情により、日本で新たにアフリカ骨董美術の体系的なコレクションを作り出すことは困難であろうことが窺える。翻って、川口氏の講演は同時代美術が題材であり、骨董品と比較して新規点数が多い。しかしながら、やはりアフリカ美術の受け皿は日本に少なく、同時代美術作品の価格高騰も相まって、西洋美術のように主だった作家・作品を広告塔にしてアフリカ美術を日本国内で広めることは難しいように思える。具体的にはアフリカ美術を主題とした展覧会実施の困難さがある。この点を開催費用や主催者をはじめとする開催側の体制・積極性に注目して解説しており、私を含めた消費する側の人間がなんとなくで理解した気になっていた部分を一段進んで理解する手がかりとなっていた。

川口氏の講演で一番重要な指摘は、アフリカ美術に対する間口の狭さというよりも、アフリカ美術に対する姿勢であろう。私自身がアフリカの文化・芸術について大学で講義を聞いた機会を振り返ると、いずれにおいてもアフリカの文化・芸術が文化人類学の研究対象、すなわち我々の文化と比して異質なもの(観察対象)として扱われていた。この姿勢はアフリカ外を観測者たる主体、アフリカを被観測者たる客体として扱う。もっとも、この姿勢はアフリカに対するものだけではない(なかった)。この辺の話は踏み込むと際限がないので割愛するが、日本で暮らす人間にとって最も身近な例はアイヌ民族に対するものだろう。

観測者は観測した情報を発信する。以前は発信先が閉鎖的かつ限定的であったが、現在は状況が異なり、広く全世界に向けて発信できる。川口氏の講演で示されたスマホを撮影者に向けるアフリカの若者たちの姿はその象徴である。インターネットへの接続時間や通信料が限られるとはいえ、アフリカかからの情報発信は手軽にできる時代であり、アフリカにいながらにして全世界の情報へ即座にアクセスできる。アフリカ各地で主権国家が成立してからも長らくアフリカは客体でのみあり続けたが、もはやその時代は終わった。これからはアフリカも観測者となり主体的にアフリカ外を論じ、発信することが可能である。この辺りは芸術以外の分野でも指摘され始めている。

 

柳沢氏の講演ではツーリストアート、端的にいえば土産物(特に真鍮製品)のモチーフの話が主であった。技術やモチーフの変遷、モチーフの民芸品への輸入などは個人的に興味深いものであった。しかしながら、私にはアフリカ美術をアフリカ外へ売り込むこととの関連が見出せなかった(これは後半で講演した非商業系の2名にも言える)。真鍮製品を現地で購入してもらうには現地が渡航地として魅力的にならなければいけないし、輸入するにしても真鍮製品をどのようにして売り込むか考えなければいけない。主催として先のようなシンポジウムの主題を掲げるのであれば、この点の考察をもっと深く掘り下げるべきではなかったか。

このように、前半では現地の作家や職人自体にスポットライトが当たることはほとんどないままに進んだ。川口氏の講演では企画展を実施した作家のアトリエなどの紹介があったものの、本シンポジウムが扱う領域の広さからすれば非常に限定的だ。

 

続いて後半の講演について。

緒方氏の講演内容はナイジェリアの一都市において「アーティスト」と呼ばれる人々がどのようなものを制作・販売しているかというものであった。この「アーティスト」は依頼に応じて慶事等の際に配布するステッカーのデザイン・印刷から車体や外壁の塗装までなんでもこなす。使うツールも対象によって異なるため、ペンキから紙、DTPまで幅広く扱う。

このように緒方氏の講演において「アーティスト」と呼称されるものは先に述べた通りデザイナーとしての側面が強い。「現地で「アーティスト」と呼ばれている/自称しているから彼らは「アーティスト」である」というのは、ここでは言葉遊びに過ぎない。ナイジェリアにおける「アーティスト」がデザイナーであると考えれば、フロアから出た「電子データの納品はあるか?」という質問は極めて自然な発想に拠る。

電子データによる納品は、緒方氏以外の講演で取り扱われたいずれの美術・工芸品とも性質を異にする。すなわち、手配が困難な梱包や高額な送料と紛失破損リスク、税関等での煩雑な手続きを回避し、在庫管理から解放され、電子決済による収入の即時性が獲得できる。立体デザインの扱いも制作環境さえ整えば可能だ。電子デザインは現状でアフリカ美術を最も簡便に発信し、普及させられる手段ではないか。(ちなみに、3Dモデル制作をエチオピアケニアへ外注した例は聞いたことがある。)

ただ、電子データを以ってしてもアフリカ美術と日本に暮らす人々との美的感覚が親和しなければ普及はしないが、これは納品手段と別の話になる。その点について、緒方氏は我々が価値観を柔軟に変化させていく姿勢が重要と述べている。しかし、私の意見はむしろ逆で、商業デザインであれば顧客の価値観に寄せていくべきだろう。ここが芸術作品との違いであり、強みでもある。アフリカ芸術の普及は遅々として進んでいないが、電子納品と組み合わせた商業デザインならあるいは、というところが私の考えだ。

 

安斉氏の講演は、(内容の全てを事実として飲み込むのであれば)企業のPRとしてもシンポジウムの一部としても理想的なものであったと思う。国内での常設展示や作家の招聘は金と場所さえあれば極論誰にでもできる。しかし、現地での作家共同体形成や日本で売り込みやすいデザインを用いた制作依頼は容易ではない。また、作品を(適正な価格で)買い取ることで作家への経済的不安・負担をなくすことは、作家が次の作品を制作するモチベーションに繋がる。作品を作っても売れるか分からないまま(下手すると収入がゼロのまま)作り続けるということは精神的・経済的負担が大きいし、そのような関係は容易に破綻し得る(それ以前に作家の生活が破綻する)。制作現場にあってはビジネスを継続するための種を蒔き、国内にあっては咲いた花を売るために最大限の努力をする。得た利益と経験から、さらに売れそうな種を蒔く。実業の重要性を理解している商人の姿を久々に目にした。外国人を騙して借金漬けにした挙句、奴隷のように扱う人でなしどもに爪の垢を煎じて飲ませてやりたい。

 

アフリカは欧米や東アジアと比較すれば総じて経済水準が低くインフラの整備も途上であり、発展に技術や経済の援助が必要なことは事実である。しかし、決して西洋や東洋に劣っているわけではない。当然のことだが、日本に欧米と異なる論理・価値観があるように彼らには彼らの論理・価値観があり、我々は互いに対等である。与えられる側であり、与える側である。いまだにアフリカが未開の地、奇特な文化を持つ異人と考えるのであれば、それはその人間の無知ゆえにであり、この点が解消されない限りアフリカが真に解放される日は来ないのだろう(アフリカ以外にも言えることだが)。本シンポジウムに参加した人間のうちどの程度がそう考えていたのかはわからないが、せめて自分だけでも差別意識を自覚し、取り払うように努力を続けたい。